LOGIN廊下側から入る時とは違う。自室と繋がるこの扉から見ると、そこは妙に距離の近い空っぽだった。寝台の天蓋は薄闇の中でぼんやりと白く浮き、鏡台の前の椅子はきちんと収まり、衣装部屋の扉も閉じられている。何も乱れていない。整いすぎている。 人がいなくなった部屋は、なぜこんなにも「整っている」ことが残酷なのだろう。 散らかっていてくれたほうがまだよかったのかもしれない。読みかけの本が開きっぱなしで、椅子へショールが引っかかったままで、鏡台の上に櫛が転がっていてくれれば、そこへ戻る気配を感じられたかもしれない。だが実際には、リュゼリアは去る前にすべて整えていった。残していくものまで、きちんとした形へ揃えて。 だからこの部屋は、留守ではなく「去ったあと」の静けさをしている。 ヴィルレオは寝台の傍まで歩み寄る。 シーツの皺ひとつない。 枕の形も整いすぎていて、そこへ頭が沈んでいたことが想像しにくいくらいだ。だが、彼には知っている光景がある。熱で頬を赤くし、咳のあとに指先を握り込む彼女。薄青い瞳を閉じたまま、息の間隔を測るように胸を上下させていた横顔。あるいは、窓辺に長椅子を置いて、朝の光の中で本を開いたまま眠ってしまう姿。 そういうものがこの部屋にはあったはずなのに、今は何ひとつ残っていない。 いや、残っているのはむしろ“彼女がそうしていた記憶”だけなのだと、ヴィルレオは思い知る。 寝室の空気が、匂いまで少し変わっていた。 リュゼリアが使う香水はもともと強くない。けれど、朝の支度や夜更けの衣替えのあとには、ほんの微かに甘さのない花の匂いが残ることがあった。今はそれもほとんどない。風を通され、日々整えられていくうちに、人の匂いは薄れてしまう。 こうして何もかもが消えていくのか、と思った瞬間、喉の奥がひどく乾いた。 取り返しのつかない喪失とは、たぶんこういうものなのだ。 大きな別れの言葉や、劇的な破局よりも先に、気配が薄れ、匂いが消え、当たり前にあった視線がなくなり、音が消えていく。そして、それを消えかけてからしか認識できない自分が残る。 ヴィルレオはふいに、寝台の端へ手を置いた。冷たい。人の体温がない布は、驚くほどただの布だった。 その冷たさが、どうしようもなく実感を伴っていた。 ◇ 寝室を出たあとも、ヴィルレオは眠る気になれなかった。
その夜、ヴィルレオは自分の寝室へ戻ってから、しばらく扉の前で立ち尽くしていた。 部屋はいつも通り整っている。暖炉には火が入れられ、厚い絨毯は足音をきちんと吸い、寝台の上には乱れひとつない濃紺の掛布がかけられている。窓辺のカーテンも半分だけ閉じられ、夜の冷気を防ぎつつ、灯りが外へ漏れすぎない角度で止められていた。何ひとつ不備はない。侍従たちの仕事は完璧だった。 それなのに、部屋の中へ一歩入った瞬間、ひどく空虚だった。 広い。 この部屋はもともと広かったはずなのに、今日に限っては広すぎるように感じる。寝台も、書き物机も、壁際の長椅子も、磨かれた床も、全部が少しずつ離れすぎていて、中央に立つ自分だけが妙に小さい。 ヴィルレオは無意識に、視線を右奥へ向けた。 そこには、自室とリュゼリアの寝室とを繋ぐ内扉がある。普段は閉じられたままだ。結婚してから三年、その扉はほとんど「開けるため」ではなく「そこにあるもの」としてだけ存在していた。夜にわざわざ行き来をすることもない。用があれば廊下側から入れば済む。だから、意識の上ではもう半ば壁の一部に近かった。 なのに今夜、その扉だけが異様に存在感を持っていた。 向こうの部屋に彼女はいない。 南の別邸へ行ったのだから、そんなことはわかりきっている。廊下を歩けば、あちらの寝室はきちんと整えられたまま静まり返っている。花もなく、灯りもなく、風を通された冷たい空気だけがある。そこへ人の気配はない。 わかっている。 わかっているのに、目があの扉を追ってしまう。 まるで、いま開ければ向こうに灯りがあり、寝台の脇でアイダが本を閉じ、リュゼリアが半身を起こして「まだ起きていらしたの」と低く笑うのではないかと、どこかであり得ぬことを思っているみたいだった。 ヴィルレオはそれを打ち消すように、強く息を吐いた。 部屋の中へ進み、上着を脱ぐ。椅子の背へかける手つきが、妙に乱暴になる。侍従を呼べば済むことだ。けれど今日は、誰かの手を借りて衣服を整える気にならなかった。 燭台の火はやわらかい。暖炉の音も小さい。すべてが「眠るための部屋」の形をしている。だが、いざ寝台の縁へ腰を下ろすと、身体の内側にまったく眠る気配がないことがわかった。 眠れないだろうと思った。 疲れてはいる。朝から王都の屋敷の綻びばかりを見せつけられ、帳簿や人員
そして、思い切るように書き始める。『本日、王都では朝から急報が入り、屋敷内も少し慌ただしかった。帳簿、人員、社交の札を見返し、お前がどれだけ多くのことを整えていたか、いまになって知った。』 そこまで書いて、ペン先が止まる。 紙に落ちたインクが小さく滲む。 どれだけ多くのことを整えていたか、いまになって知った。 その一文は真実だ。だが真実であるぶん、重い。彼女はそれを読んでどう思うだろう。遅すぎると、笑うだろうか。あるいは、そんなことはいまさら知っても意味がないと、静かに目を伏せるだろうか。 しばらく迷い、結局ヴィルレオはその行を消さなかった。 続けて書く。『北方の急ぎで午前の予定が崩れたが、お前ならどう整えたかと、何度も考えた。』『南では、お前が少しでも息をしやすくしているなら、それが何よりだ。』『こちらのことは気にするな、と言うべきなのだろうが、嘘になる。お前がいないことを、屋敷のどこを見ても思い知る。』 そこまで書いたところで、ヴィルレオは自分でも驚くほど長く息を止めていたことに気づく。 嘘になる。 その通りだった。本当は「気にするな」と書くべきなのだろう。療養へ出た妻へ、王都のことは任せて休めと。それが正しい。だがもう、そういう正しさだけで書きたくなかった。 少なくとも一度くらいは、自分の見ている現実を、そのまま彼女へ差し出してもいいのではないかと思ったのだ。 これまでのヴィルレオなら、書かなかった。 屋敷の運営に不具合が出ていると告げれば、療養中の彼女が責任を感じるかもしれない。ならば隠すべきだと判断しただろう。何も問題はない。安心して休め。そう整えた言葉だけを送り、それが相手のためだと思ったはずだ。 だが今は、その整った言葉こそが、彼女とのあいだに壁を作ってきたのだとわかる。 問題があるなら、あると言う。 寂しいなら、その事実を隠さない。 気づくのが遅れたなら、遅れたと認める。 そんな当たり前のことを、彼はこれまで一度もしてこなかった。 公爵としては、弱みを見せないことが正しかった。 だが夫としても同じである必要など、本当はなかったのだ。 ヴィルレオは書いた文面を、初めからもう一度読み返した。 不格好だった。 妻を気遣う書状としては、王都の混乱を伝えすぎている。感謝を示すには、言葉が硬い。謝罪として読
◇ 翌朝、さらに決定的なことが起きた。 王城からの早馬が日の出前に到着し、北方の急ぎの案件が一つ入り込んだのだ。クラウスが書斎へ駆け込み、執務の順番を組み替える必要があると伝える。以前なら、こういう時も屋敷の中は驚くほど滑らかに動いていた。朝食の時間が少しずれ、来客の順が入れ替わり、王城への返書が先に用意され、それでも誰も慌てた顔を見せないまま、気づけば全体がぴたりと整っていた。 今朝は違った。 書類の束は揃う。馬の用意もされる。だが、どの来客を後ろへずらすか、そのずらした来客へどう伝えるか、食事をいつ入れるか、医師への時刻変更をどう回すか、それらが一度にいくつも滞った。「待て」 ヴィルレオが低く言う。「午前の来客は誰だった」「西区の監査官と、ラングベルト伯爵家からの使者、それに」「監査官を後ろへ回せ。ラングベルト伯は午前のほうがいい」「ですが、監査官の馬車はすでに」「なら控え室へ通せ。茶だけ出せ。使者は応接間へ先に」 自分で指示しながら、以前はこれを誰がやっていたのかと気づく。 リュゼリアだ。 公爵の執務そのものではなく、その周辺を滑らかに通すための采配。どの客なら少し待たせても表立って不機嫌にならず、どの家はむしろ先に通すべきか。どの茶を出せば場が持ち、どの菓子なら「丁重に扱われている」と感じるか。そういうことを、彼女は日常として処理していた。「旦那様、朝食は」 給仕役が恐る恐る声をかける。 ヴィルレオは一瞬だけ答えに詰まる。 以前なら、ここでリュゼリアがもう別の形を整えていたのだろう。王城の急報が入った朝は、片手でつまめる塩気のあるものと薄い茶を小卓へ運ばせる。あるいは、移動の馬車に積ませる。だが今、その判断は誰にも降りていない。「パンと茶を執務室へ」 とっさに言う。「香草のないものだ」「かしこまりました」 給仕が去る。 その後ろ姿を見送りながら、ヴィルレオは無意識に机の端を強く握っていた。 屋敷が回っていたのは、リュゼリアのおかげだった。 昨日帳簿や人員配置を見て理解したばかりのはずなのに、今朝の混乱はその事実をさらに別の角度から叩きつけてくる。 彼女が整えていたのは、単なる家事ではない。 この巨大な家が、公爵の執務と王都の社交と使用人たちの生活とを、無理なくひとつに繋げておくための緩衝材だ
歩くうち、足は自然と私室の奥へ向かっていた。リュゼリアの寝室。彼女が南へ発ってから、必要な確認のほかはほとんど入っていない部屋だ。扉の前で一瞬だけ迷う。だが、それもごく短いものだった。 ノックはしない。 もう、返事をする人はいない。 扉を開ける。 中は暗く、しかし整いすぎるほど整っていた。寝台の天蓋は真っ直ぐに落ち、鏡台の上には最小限の香水瓶と櫛が整然と並び、衣装部屋への扉もきっちり閉じられている。花はない。王都を発つ前、彼女が咲くところを見たかったと零した白薔薇は、温室で今ごろ半開きだ。 室内の空気は冷えすぎていなかった。誰かが火を入れ、毎日風を通し、寝具も埃ひとつ立てぬよう整えているのだろう。だが、どれほど整っていても、そこに人の体温がないという事実だけは隠せない。 ヴィルレオは寝台へ近づき、しばらく立ち尽くした。 この部屋では、どんな朝を迎えていたのだろう。 自分が起きるずっと前から、彼女は目を覚ましていたはずだ。体調が悪くても悪くなくても、食堂の時間に間に合うように、報告に目を通せるように。夜会の翌朝でも。雨の日でも。風邪を押してでも。自分の機嫌を損ねぬよう、客に失礼のないよう、屋敷が滞らぬように。 そのくせ彼女は、寝台で怠けることに罪悪感を抱いていた。 南の別邸で「何も急がなくていい朝」が落ち着かないと零した時の顔を思い出す。あれはただの感傷ではなかったのだ。あの女は本当に、長いあいだ何かに追われることでしか朝を迎えたことがなかったのだろう。 その追い立てていたものの一部に、自分がいた。 それを思うと、寝室の空気すら自分を責めているようで、ヴィルレオは低く息を吐いた。 ふと、鏡台の端に小さな箱が残っているのが目に入る。紺のベルベット。婚礼の指輪が入っていた箱だ。 南へ持っていかなかった。 あれは偶然ではない。リュゼリアは意志を持ってここへ置いていったのだ。婚礼の時、儀礼として指へ通され、その後はしまわれたままだった細い金の輪。それを持っていかないことが何を意味するか、彼女はよく理解していたはずだ。 ヴィルレオは箱へ手を伸ばし、すぐに止めた。 勝手に開ける気にはなれなかった。 そこへあるというだけで十分だった。彼女が、自分との婚姻の象徴を、最後まで身につけぬままここへ置いた。その事実が、もう十分すぎるほど重い。 寝室
その夜、ヴィルレオは書斎の机に肘をついたまま、長いこと動けなかった。 机の上には開いたままの冊子がある。リュゼリアの細い筆跡で綴られた、屋敷の人員と癖と季節ごとの注意点、それから社交の綻びを未然に防ぐための、ごく短い覚え書き。その中に、自分の名前が当たり前のように混じっている。『旦那様 北方帰り、朝の香草強すぎると食進まず』『書斎夜更かし翌朝は甘味より塩気』『王城泊まり続きの週は夕刻の来客一件減らす』『雨前は左のこめかみ痛みやすい』 どれも些細なことだ。 些細すぎて、まともに取り上げるほどのことではない。彼自身も、誰かに説明を求められれば「どうでもいい」と一蹴しただろう程度のことばかりだった。 けれど、そういう些細なことが重なって、人は呼吸を楽にしたり、食を進めたり、苛立ちを抑えたりしながら日々をやり過ごしているのだと、ヴィルレオは今になって思い知らされていた。 これまで自分は、どれだけ“整えられた状態”に慣れきっていたのだろう。 夜更けに書斎の灯りが遅くまで消えない日でも、翌朝の茶は薄すぎず濃すぎず、胃へ重くない塩気のあるものが先に出た。北方から戻った夜は、好むとも口にしたことのない温かな汁物がひと皿増えた。雨の前には不思議と予定の詰め方が少し緩くなって、王城帰りで頭が鈍る週には、気づけば余計な来客がうまく外されていた。 偶然だと思っていた。 公爵家だからそうなのだと、屋敷が勝手にそういうふうに回るものなのだと、疑いもしなかった。 だが違った。 それは全部、あの女が見ていたからだ。 誰より早く、自分の小さな不調や機嫌の変化を拾い上げて、その場で手当てしていたからだ。 しかも、それを“世話”だと悟らせぬかたちで。「……笑えないな」 誰に聞かせるでもなく、低く呟く。 書斎の静けさが、やけに硬かった。南の別邸の静けさとはまるで違う。あちらの静けさは風や湖や土が作る、生きたものの沈黙だった。こちらの静けさは、手を入れるべき者が抜け落ちたあとの、少しずつ息の浅くなっていく家の静けさだ。 燭台の火がひとつ、小さく揺れる。 ヴィルレオは冊子を閉じた。閉じても、細い筆跡は瞼の裏へ残ったままだった。 そのまま机の引き出しを開ける。リュゼリアが使っていた小さな執務机から移された覚え書きは、まだすべてを精査しきれていない。束ねた札。季節ご